さて、1702年の年の暮れ、14日深夜から15日未明にかけて起きた、赤穂浪士の吉良邸への討ち入り。 ご存じ、「忠臣蔵」です。 小学生の頃より、暮れになると「忠臣蔵」は、必ずテレビ番組で放映されており、必ず観ていました。 (今晩もありますよ。)
かくして、多感な私は忠臣蔵オタクになり、中学生ともなると当時の人気歌手、三波春夫の「赤垣玄三」や「俵星玄蕃」のレコードを買い、曲を覚えました。 「赤垣玄三」 では、兄との別れ、「俵星玄蕃」では武士の友情が謳われ、涙を誘います。 これらの曲は、歌と浪曲が組み合わされており、一曲20~30分の長さがあります。 高速道路の車の中でも一人で歌いながら、涙を流しています。 (これは危険運転か?) ということで、今でも、これが私の18番(おはこ)です。 もし良ければお聞かせしますので、ご用命下さい。
そこで、例によって辞世の句。 今回は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の辞世の句です。 「風誘う 花よりもなお 我は又、春の名残りを いかにとかせん。」
この一大事を巡っては、47人の浪士達に切腹を命じた徳川幕府の処分を含めて、賛否両論が巻き起こります。 将軍綱吉も「忠義」が「殺生禁止」か悩みます。 幕府の御用学者の中でも、その処分について、室鳩巣は浪士「擁護派」、荻生徂徠は「厳罰派」と真二つに分かれます。 その結論が、武士の面目を保つ切腹を許すという結論です。 これにより、綱吉の治世が崩れて行きます。
でも冷静になって考えてみると、そもそも浅野内匠頭が短気を起こして、あろう事か、江戸城内で刃傷沙汰に及んだことが発端です。 そんな私怨・私憤で事を起こしたら、赤穂藩はお取りつぶし、家来達やその家族も路頭に迷う事を考えないバカさが原因です。 内匠頭の個人的な恨みは晴れても、家来はとんでもない迷惑です。 事実、赤穂47士は藩士から浪人身分となり、困窮してしまいます。
しかし、民意は違っています。 集団での押し込み、殺人行為を行った赤穂浪士を糾弾するよりも、江戸の民衆の積もり積もった鬱憤は、江戸幕府批判に向かいます。 この度の大阪府知事・大阪市長選挙と同じです。 耐えに耐え、見事主君の仇を討った47人の浪士は、忠を尽くす臣の鏡、赤穂義士として讃えられます。 でも、最近は高校生にこの話をしようにも、先ず「忠臣蔵」が読めないんです。 当然、「討ち入り」なんて話は全く知りません。 まあ、この討ち入り人情話が、戦争時の戦意高揚に使われるよりはマシですが ・・・・・ 。
「忠臣蔵」、これを単なる「忠と臣」だけで捉まえるのではなく、為政者を民衆の視線で考える必要性、今の自分の今の立場と考え合わさずにはいられません。 国民、県民、市民の皆さんの民意をきちんと認識できるかが問われています。
民意を感じとれる感性に直球勝負。
