信心の真とは

※※※2月8日(金)※※※

私は毎朝、今は無き父母の写真にむかい、ろうそくに灯をともし、線香を立て「般若心経」を唱えことを日課としています。 

勿論、「般若心経」は完全に暗唱することが出来ます。  しかし、昨晩、驚愕となる真実を聞いてしまいました。 

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般若心経は、写経をはじめ広く一般に親しまれており、わずか262文字から成る短いお経である。

その内容は、菩薩の智慧(般若)を得て、仏の悟りに近づく自力の実践行ということになる。

いわば、自己の力の実践において悟りを得ようとする教えなので、自力修行を尽くし切れるエリートの教えと言っても過言ではない。

一方、親鸞聖人は一切の自力の行を積むことのできない者、たとえ積むことができても最後まで積み通すことができず、仏の悟りに近づけない私たち凡夫のことを『いずれの行も及び難き身』とお示し下さった。

そのことから言うと、自力の実践行というものは、かえって「無条件に汝を救う」とお誓い下さった阿弥陀さまの教えに背く行為ということになってしまう。

人間の努力を否定するものではないが、「いかなる力もわが力に非ず」という阿弥陀様の絶対他力の中に生かされていることに目覚め、讃嘆されたのが親鸞聖人ということである。

つまり、親鸞の教えを酌む真宗門徒には、般若心経の勤行はない。 

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嗚呼、猛省。 信心は何が何でも形から入るのではなく、ちゃーんと意味を理解してから従うべきでした。

信心の真に直球勝負。