歴史上の要衝

※※※5月30日(火)※※※

今日は、久しぶりに「瀬田の唐橋」を渡り、県庁へ行きました。 この橋を渡るのは、約1年ぶりですが、この橋を渡るたびにつくづくこの橋は歴史上要衝だと感じます。

壬申の乱」(671年)では大友皇子と大海人皇子が、「藤原仲麻呂の乱」(764年)では孝謙上皇と恵美押勝が、「源平合戦」(1183年)では木曽(源)義仲と平家が、その後、義仲と義経がこの橋を挟み交戦しています。

また、「承久の乱」(1221年)では後鳥羽上皇の軍と北条義時の軍が、また、「建武の戦い」(1336年)では足利尊氏の北朝軍と後醍醐天皇の南朝軍が戦いました。

さらには、武田信玄も上洛を目指した時、この橋に「風林火山」の旗を立てたいと切望したとも伝えられています。

この橋を現在の位置に架け直したのは織田信長とされていますが、「本能寺の変」(1582年)で信長を倒した明智光秀がこの橋を渡り安土城に向かおうとした時には、信長の家臣により橋を焼き払われて渡れませんでした。

「もし、この時、光秀が瀬田の唐橋を渡っていれば、天下の情勢は変わっていただろう。」とも伝えられています。 歴史は実に面白い。

武士(もののふ) 矢橋(やばせ)の船は 急げれど、急がば廻れ 勢多の長橋」という歌があります。

「京へ入る場合、草津の矢橋港から船で大津の港へ行くのが早いが、その様な時に限って天候が荒れて逆に遅くなる。 急ぐ時こそ、歩いて瀬田の橋を渡るのが賢明。」という意味です。

ここから、「急がば廻れ」 の諺が生まれました。

夕照(せきしょう)、勢多長橋とも大橋」と呼ばれるこの橋は、古来、交通の要衝であると同時に数々の日本史上の重要な役割を果たした歴史的・文学的な名所であり、滋賀県の貴重な観光資源です。

この様な歴史上の要衝である橋ですから、欄干は派手な朱色の方が良いのではないでしょうか。 そう感じました。

歴史の要衝に直球勝負。