忠臣蔵考②

※※※12月15日(金)※※※

昨日の「忠臣蔵考」の続き、2日目です。

この「仇討ち」という一大事を巡って、47人の浪士達に切腹を命じた徳川幕府の処分のお在り方を含めて、賛否両論が巻き起こります。

将軍綱吉も「忠義」が「殺生禁止」か悩みます。 幕府の御用学者の中でも、その処分について、室鳩巣は浪士「擁護派」、荻生徂徠は「厳罰派」と真二つに分かれます。

そして、その結論が、武士の面目を保つ「切腹を許す」という結論でした。 これにより、綱吉の治世が崩れて行きます。

でも冷静になって考えてみると、そもそも浅野内匠頭が短気を起こして、あろう事か、江戸城内で刃傷沙汰に及んだことが発端です。

そんな私怨・私憤で事を起こしたら、赤穂藩はお取りつぶし、家来達やその家族も路頭に迷う事を考えないバカさが原因だと言えます。

内匠頭の個人的な恨みは晴れても、家来はとんでもない迷惑です。 事実、赤穂47士は藩士から浪人身分となり、困窮してしまいます。

しかし、民意は違いました。 と言うか、民意を浪曲師などが作り上げていったのかもしれません。

集団での押し込み、殺人行為を行った赤穂浪士を糾弾するよりも、江戸の民衆の積もり積もった鬱憤は、江戸幕府批判に向かいます。

耐えに耐え、見事主君の仇を討った47人の浪士は、忠を尽くす臣の鏡赤穂義士として讃えられ、現在でも涙を流しながらテレビを観る人も多くいます。

「忠臣蔵」、これを単なる「忠と臣」だけで捉まえるのではなく、為政者が民衆の視線で事を行う必要性を考えざるを得ません。

忠臣蔵の真実に直球勝負。