最近は、「忠臣蔵」をどう読むのか分からない子供も増えた様ですが、私は小学生の頃から「忠臣蔵」、「赤穂浪士」にあこがれる少年でした。
「忠臣蔵」は、、元禄15年(1702年)年の暮れ、12月14日深夜から15日未明にかけて起きた、赤穂浪士47名による吉良邸への討ち入り、そして、集団自決でした。
私が「忠臣蔵」に惹かれた原因の一番は、やはり、君主の仇を討つという「忠義」、そして、功を成し遂げた後に四十七士が全員自決するという凄まじい生き方でした。
多感な私は忠臣蔵オタクになり、中学生ともなると当時の人気歌手、三波春夫の「赤垣玄三」や「俵星玄蕃」のレコードを買い、曲を覚えました。
「赤垣玄三」 では兄との別れ、「俵星玄蕃」では武士の友情が謳われ、涙を誘います。
これらの曲は、歌と浪曲が組み合わされており、一曲20~30分の長さがありますが、今でも、私の18番(おはこ)です。
二番目の原因は、播州赤穂藩の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の辞世の句、「風誘う 花よりもなお 我は又、春の名残りを いかにとかせん」でした。
幼心に、人の命の儚さと無念を感じ取ったのかもしれません。 私の「辞世の句好き」の原点は、この句との出会いがきっかけでした。
しかし、その後、この「忠臣蔵」を冷静に分析できる年齢になるに従い、己の単純さと薄っぺらさに気付き自己嫌悪にもなりました。 続きは、明日へ。
忠臣蔵の真実に直球勝負。