本日の県議会一般質問において、「学力」か「学ぶ力」かについての質疑応答がありましたが、その中で、知事が本県の学力対策について「急がば廻れ」という言葉を使われました。
この「急がば廻れ」は、「武士(もののふ)の 矢橋(やばせ)の船は 急げれど、急がば廻れ 勢多の長橋」という歌に由来する言葉です。 つまり、滋賀県発祥の言葉です。
「京へ入る場合、草津の矢橋から船で大津へ行くのが早いが、そんな時に限って天候が荒れて逆に遅くなるもの。 急ぐ時こそ、歩いて瀬田の橋を渡るのが賢明だ。」という意味です。
「壬申の乱」(671年)では大友皇子と大海人皇子が、「藤原仲麻呂の乱」(764年)では孝謙上皇と恵美押勝(えみおしかつ)が、「源平合戦」(1183年)では木曽(源)義仲と平家が、
さらには、「承久の乱」(1221年)では後鳥羽上皇の軍と北条義時の軍が、「建武の戦い」(1336年)では足利尊氏の北朝軍と後醍醐天皇の南朝軍が、この橋を挟み交戦しています。
また、武田信玄も上洛を目指した時、この橋に「風林火山」の旗を立てたいと切望したと伝えられています。
そして、「本能寺の変」(1582年)では、信長を倒した明智光秀がこの橋を渡り安土城に向かおうとした時、信長の家臣により橋を焼き払われて渡れませんでした。「もし、この時、光秀が瀬田の唐橋を渡っていれば、天下の情勢は変わっていただろう。」とも伝えられています。 まさに日本史のど真ん中に位置する大橋です。
「夕照(せきしょう)、勢多の長橋とも大橋」と呼ばれるこの橋は、古来、交通の要衝であると同時に日本史上の重要な役割を果たした歴史的・文学的な名所であり、貴重な観光資源です。
そんな謂われのある「瀬田の唐橋」にまつわる「急がば廻れ」という言葉。 そこで、滋賀の子ども達に「急がば廻れ、近江の子」というメッセージ、案外良いのではないでしょうか。
滋賀の教育に直球勝負。