子規の愛した野球

※※※9月25日(月)※※※

「まり投げて 見たき広場や 春の草」、「9つの人、9つの場を占めて、ベースボールの始まらんとす。」 これは、1902年、36歳で没した正岡子規の詠んだ句です。

子規自身は日本に導入された野球の魅力に取り憑かれた一人で、結核を患うまで捕手として、野球に没頭していました。

松山市に生まれた子規の幼名が、「のぼる)」であったので、「ベースボール」を「野(の)ボール」から「野球」と和訳したと言われています。

子規は、一時期、自分の俳人としての雅号を「野球」としていたほどです。 この4年後に、正式に「野球」と命名されるのですから、正に、子規は野球の生みの親です。

ちなみに、バッターを打者、ランナーを走者、フォアボールを四球、ストレートを直球、フライを飛球、ショートストップを遊撃手などと訳したのは子規です。 これらの功績から、子規は2002年(平成14年)に野球殿堂入りをしています。

雅号の「子規」とは、ホトトギスとも読みます。 結核で胸を病み、血を吐く自らを、血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスになぞらえたものです。

野球を愛してやまなかった子規の魂は、この国の野球隆盛に息づいています。

子規はの命日は、1902年9月18日ですが、その前日に詠んだ 「へちま咲いて 痰のつまりし 仏かな」、この句が辞世の句となりました。 合掌。

野球の恩人に直球勝負。