忠臣蔵の精神性

※※※12月14日(金)※※※

~ 山と川との合い言葉 白き木綿の袖印、 山道段だら火事羽織 同じ出で立ち勇ましく 目指す行く手は両国か ・・・ ~

時は元禄15年(1702年)の年の暮れ、14日深夜から15日未明にかけて起きた、赤穂浪士の吉良邸への討ち入り「忠臣蔵」物語です。

この一大事を巡っては、47人の浪士達に切腹を命じた徳川幕府の処分を含めて、賛否両論が巻き起こります。 

将軍綱吉も「忠義」が「殺生禁止」か悩みます。

幕府の御用学者の中でも、その処分について、室鳩巣は「擁護派」、荻生徂徠は「厳罰派」と真二つに分かれます。

その結論は、武士の面目を保つ切腹を許すという結論です。 

でも冷静になって考えてみると、そもそも浅野内匠頭が短気を起こしたことが原因です。

しかし、民意は違っています。 

集団での押し込み、殺人行為を行った赤穂浪士を糾弾するよりも、江戸の民衆の積もり積もった鬱憤は幕府批判に向かいます。

「殺生禁止」や「生類憐れみの令」など、幕府の悪政への不満を持は、見事主君の仇を討った47人の浪士を、忠を尽くす臣の鏡、赤穂義士として讃えられます。 

「忠臣蔵」、これを単なる「忠と臣」だけで捉まえるのではなく、為政者を民衆の視線で捉まえる時、あまりにも今の日本と似ているように感じられます。

風誘う 花よりもなお 我は又、春の名残りを いかにとかせん 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)辞世の句です。 

 為政者の在り方に直球勝負。