五輪選手の謝罪②

※※※2月16日(金)※※※

昨日の続きです。 

オリンピックなどを見ている人は、期待していた通りのことが起こらなかった場合には、期待していた分だけ、落胆や欲求不満を感じてしまい、がっかりした気分から抜け出したいと思います。

スポーツ報道も同様です。 選手が勝ったり記録を達成した場合、勿論、その理由を報じる場合もありますが、その価値を強調する傾向が強い場合があります。

例えば、『〇〇種目では日本初の金メダル!』、『史上〇人目の記録達成!』などという表現です。

一方、負けた時には、対戦相手や気候、審判などの外的要因、選手自身の内的要因を挙げ、説明を加えながらソフトランディングさせる傾向があります。

選手も同様で、日本の選手は、負けた原因の追及から身を守ろうとして、他人に求められる前に自分で自分を罰し、それを世間に知らせているのではないでしょうか。

米国の選手は、感謝の言葉や対戦相手の強さを称えることで、原因の追究から自分のメンツを守ろうとしているのかもしれません。

『高校野球と精神主義』(作田啓一:1965年)では、 「球児が試合に負けた後、泣いていた。負けて泣くのは高校生選手が純真だからに違いないが、泣くほどに勝利を希求させる大人たちの圧力を思うと、その純真さに素直に同情する気持ちになれない 」との考察が書かれています。
 
そして、「日本の社会では、個人は集団を、集団はもっと大きい集団を代表する仕組みになっている。 オリンピックから高校野球に至るまで、人は国家のために、母校は郷土の栄誉のために、どうしても勝たなければならない
郷土や母校や後援会の期待を担って甲子園に出場する選手たちはもはや『個人』ではない。 チームの勝敗は背後の集団の実力の程度を象徴するから、絶対に負けてはならない」と続きます。
 
 選手たちは、代表になれば「個人」ではなくなり、所属する集団や国家の象徴であるために、「負けてはいけない」という重圧を背負います。 故に、任務を遂行できなかった自分を自分で罰し、詫びるのでしょう。

選手の好パフォーマンスや好成績は、応援する者の喜びでですが、日本という国のすばらしさを象徴するために、どうしても勝たなければという重圧を背負ってほしくはありません。

周囲の期待と結果が一致しなかったからといって、自罰的になってほしくはありません。 責任や呪縛から心身を解放してパフォーマンスをして欲しいのです。

負けた選手たちの「申し訳ない」という言葉を聞くとき、聞いているこちらも選手に対して申し訳ないような気持ちになってきます。(あるジャーナリストの問いかけをまとめました)

五輪選手の謝罪に直球勝負。