弱肉強食の掟②

※※※8月26日(金)※※※

2011年6月1日のYahoo!知恵袋への質問「弱肉強食がなぜ人間の社会では行われないのか?」に対する回答の紹介(その2)です。

【問】文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されてきた。優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないか。 自然界では「弱肉強食」という単語の通り、弱い者が強い者に捕食されるが、人間の社会では何故それが行われないのか?

【答】人間は、子孫の繁栄の可能性を最大化しているわけで、生存戦略として大成功している。 「優秀な遺伝子」というものはなく、 あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」だ。

遺伝子によって発現されるどういう「形質」が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能である。

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれない。

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となる。

遺伝子に優劣はなく、あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」である。

アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいない。つまり、「社会」というものがない生の自然状態に置かれたなら、人間は全員「弱者」ということだ。

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略といえる。

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」であると答える。

それは、「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからに他ならない。我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということだ。

人の本質に直球勝負。